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二尊院の文化財

釈迦如来立像

釈迦如来立像

 二尊併立する向かって右側の尊像。像高は97.7cm。桧材寄木造り・漆箔・内刳り・玉眼入りの像で、鎌倉時代の作である。後背、台座はともに後補である。

 清凉寺式釈迦像といわれる特異な形姿で、頭髪は縄状の螺髪、衲衣は通肩で胸を全くあらわさず、同心円の衣文は三道下にいたる。股間はV字形を示し、膝辺では流水衣文をなしている。腹の上部・上腿部・裾の三ヶ所に錐金で丸の中に宝相華文を描いている。全身朱色の彩色をほどこされていたとするが、わずかに残すのみである。

 胎内から墨書が見つかっており、造像時の銘とみとめられる。明記は不明文字を含めていずれも梵字であるが年紀、作者名を記す銘はない。上から「バク」釈迦如来の種字、「タラク」宝生如来あるいは虚空蔵菩薩の種字、以下二文字は不明である。

 この清凉寺様式は永延元年(九八七)奝然が宋より請来して京都の清凉寺に安置した釈迦像の形姿で、中国ではすでに六世紀頃から盛んに模刻像が造られ、特殊な釈迦像信仰を形成しており、尊像の形式はインド・グプタ期の作風を反映し、生身の栴檀釈迦瑞像として信仰を集めた。

阿弥陀如来立像

阿弥陀如来立像

 二尊併立する向かって左側の尊像。像高は98.3cm。桧材寄木造り・漆箔・内刳り・玉眼入りの像で、鎌倉時代の作である。後背、台座はともに後補である。渦巻きの螺髪を後頭部まで丁寧に掘出し、胸をあらわして衲衣を通肩に着し、右手を上げ左手を下げ、それぞれ第一・二指を捻ずるいわゆる来迎印を結ぶ直立の像である。金泥などの彩色はわずかに残すのみである。

 昭和27年解体修理が行われた際に、阿弥陀像の胎内及び台座に墨書銘が発見された。ことに右耳の箇所は「文永五年八月日」(1268)、左耳の箇所は「法橋院■」、胎内前面の箇所には「文永三年月日」とあるので、鎌倉時代中期の京都七条大宮仏所で、院派仏師により造られたことが考えられる。

 院派仏師とは、平安時代後期以後の仏師の一派で定朝の子、覚助の弟子院助を祖師とする。名の字にちなみ「院派」と称する。京都に仏所を構えて主として皇族や貴族のための造仏に従事し、12世紀後半の院尊以来鎌倉時代中期まで、京都で最も力を持った。

四天王像

広目天

 その像容は一様に憤怒の形相で甲冑を着し、武器を取り、足元に邪鬼を踏む姿に表される。

 像高は東方 持国天が54.8cm、右手を腰にあて左手を振り上げ太刀を持つ。南方 増長天が58.7cm左手を腰にあて右手を振り上げ太刀を持つ。西方 広目天が56.5cm右手に筆、左手に経巻を持つ。北方 多聞天は57.4cm、右手に宝塔を捧げ持ち、左手に戟を持つ。

 構造は厚彩色のためはっきりしないが桧材の寄木造りで、内刳り、玉眼入りの像で邪鬼は躰部を一材から彫出しており鎌倉時代の作で極彩色を施すがこれは後補である。

 緊張感のある面相、目鼻立ちの彫りは鋭く甲冑や着衣の凌ぎ立つ衣文、特に大袖や翻る裳裾の扱いなど写実的で全体に彫刀の冴えを見せる優作で東大寺大仏殿の四天王像に姿がほぼ一致する。

 また多聞天の左股から室町時代に修理のときに納入された小紙片が発見され、これによれば「二尊院の四天王像が造顕され150年余りを経て住職は修理の念願があったところ、仏師『聖訓道人』が来寺し修理を行い願いが成就した」とあり、永享七年八月日(1435)の日付と8人の僧侶の名前が記されている。

二尊院五輪塔(三柱)

二尊院五輪塔

 中央に並ぶ三基の五輪塔は、いずれも花崗岩製で、その特徴から鎌倉時代後期の中央様式を踏まえた秀作で見事な調和美を見せている。

 五輪塔は、弘法大師・空海が中国より密教を伝来したことにより九世紀以降から盛んに造られ、下から地・水・火・風・空の順に積み重ねられ、この世界(宇宙)を形成する五つの物質を密教的に表現している。

 中央(塔高153cm)が楊貴妃、両脇(右塔高106cm・左塔高114cm)に建つのが侍女の霊廟(墓)と伝承されている。周囲には五輪塔をはじめ宝篋印塔や瑜祇塔の一部が無造作に置かれているが、これらは向津具半島内から田畑を開墾するときに出土したものの一部である。さらに外側には二尊院の歴代住職の墓が並んでいる。

二尊院の昔ばなし

 優美さを保ってきた本尊「二尊仏」は、その時々を生きる人々の心を魅了してきました。この「二尊仏」には次のような昔話が残っています。

 むかしむかし、泥棒が一儲けしようと思い、夜暗くなるのを待って二尊院の仏さまを盗みに入りました。見つかってはたいへんと、泥棒は仏さまを背負って大急ぎでスタスタと歩きました。もう、だいぶん歩いて遠くに来たので、見つかることもないだろうと仏さまを置いてひと休みすることにしました。

 やがて東の空が明るくなりだした頃、よく見れば不思議なことに泥棒はまだ二尊院の境内に居るのです。霊験あらたかな仏さまを盗もうとした泥棒は、罰が当たるのを恐れて元の場所に仏さまを戻して、こそこそと立ち去ったということです。

 そう泥棒は仏さまを盗み出しましたが、結局は二尊院の周囲をグルグルと回っていただけだったのです。このように、何かしても物事がちっともはかどらないことをこの辺りでは「二尊院の仏さまをかるうた(背負った)ような」と言うようになりました。」