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二尊院の縁起

二尊院縁起

 正式名称を龍伏山天請寺二尊院と号し、長門国の古刹です。向津具半島の中央付近久津湊の小高い丘に境内を西向きに構えてます。創建は寺伝によると、大同二年(八〇七)天台宗の開祖、伝教大師・最澄の開基とされ、向津具半島内に八つの僧坊と十五の末寺を従え、別名向津具城と呼ばれる大寺院でした。

 江戸時代に長州藩で編纂された『寺社由来』によると十五の末寺とは、白木村 西福寺・久津村 高福寺・久津村 清水寺・安佐村 吉祥寺・本郷村 法寿庵・本郷村 来光寺・上野村 蔵福坊・上野村 万福寺・上野村 多門坊・松崎村 福寿庵・本郷村 正福寺・上野村 松尾寺・久原村 積念寺・御崎村 法興寺・残り一ヶ寺は不明であるとしています。

 天台宗として興隆するも栄枯盛衰を繰り返し、江戸時代初頭には長州藩第二代藩主・毛利綱廣公の庇護を受け堂宇の寄進を賜り、宗旨を真言宗に改め隆盛するも、幾多の兵火戦乱、天災に遭い次第にその規模を狭め、末寺のすべてが姿を消し現在の寺観となっています。

鎌倉時代の名僧「叡尊」

 またの説に、鎌倉時代の真言律宗の名僧「叡尊」に関係する寺院ともいわれています。

 叡尊は鎌倉時代の僧侶で、戒律の重要性を説き、それを厳守するとともに、「興法利生」という理念を掲げ、社会福祉活動を積極的に行いました。

 当時の仏教では社会弱者である、女性・障がい者・ハンセン病患者・生活困窮者・被差別部落民は仏法では、救済されないというのが通説でした。しかし、叡尊はこの常識に風穴を開け、彼らに戒律を遵守することで、いかなる身分の人でも仏によって救われると説き、社会的弱者の救済に乗り出します。

 さらに社会弱者の働き口となる寄付による公益事業を精力的に展開し、陸上や河川、海上の交通路の整備、耕地開発を進めました。

 また、旧来の仏教では顧みられなくなっていた女性の教化、救済に取り組み、尼寺の復興・造営などを意欲的に進めたのでした。

 晩年、元寇に際しては、蒙古軍撃退のために四天王を祈る鎮護国家の祈祷を行っています。「東風をもって兵船を本国に吹き送り、来人をそこなわずして、その乗るところの船を焼き失わせたまえ」と祈願しました。

 「来人」とは、日本にやってくる蒙古軍の将兵たちのことですが、彼らの命をそこなうことなく船を焼き失わせよというのは、いかにも叡尊らしい祈願といえます。祈願をおえた叡尊のもとに知らされたのは、蒙古軍の兵船が大風のために破損して、引き上げたというものでした。

 叡尊は90歳で亡くなりますが、その日の朝に「ひとりで始めたことが、ここまで広がるとは思わなかった」と語っています。「興法利生」の信念を90年間貫いた人でした。

 この叡尊ゆかりの寺院には、4つの特徴があります。(1)清凉寺釈迦像、(2)四天王像、(3)五輪塔、(4)十三重の宝塔。二尊院には(1)~(3)まで揃っています。

 じつは(4)も、江戸時代までありましたが、毛利家家臣の榎本伊豆守元吉が気に入り、萩の邸宅まで船で運搬して持ち帰ってしまいます。しかしその後、元吉の邸宅では、夜な夜な妖など奇怪なことが起こるので気味悪がって手放し、現在は萩市の長寿寺境内の一角にそびえ立っており県の有形文化財の指定を受けています。

 二尊院は叡尊の社会活動の一つである「女人済度(救済)」に特化した寺院であり、活動のシンボルとして当時の日本で大変人気のあった「楊貴妃」を活用したといわれています。

 二尊院の楊貴妃伝説は、楊貴妃の漂着が先なのか、それとも叡尊の教化が先だったのか、今となっては調べようのない、鶏が先か卵が先かの話ですが、いずれにしても、長い時間この地に伝え、拝みこまれてきた信仰であることには間違いありません。

二尊院のある向津具半島とは

 向津具半島は長門市に属し、山口県はもとより本州の最西北端に位置し、北長門国定公園に含まれ、北に日本海、南に油谷湾を望み、半島の先端には国指定天然記念物の「俵島」を有し、風光明媚で自然豊かな半島です。

 その位置関係から、大陸に最も近い地域の一つとして古来より多くの人々が日本の玄関口として行き交ったとされ、弥生時代前期に初期稲作文化の拠点的な集落だった山口県最古の本郷山崎遺跡や国指定重要文化財の「有柄細形銅剣」なども発見されており、ロマンあふれる歴史が点在しています。

 平安時代の『和名類聚抄』によれば山口県北部の北浦地区に九つの郷が置かれ、その一つに「向国(ムカツクニ)」と記されています。語源としては海を隔てた向こうの国へ、あるいは向こうの国から本邦へ往来する場所として、「向国」と名付けられたと伝わります。

 この向国郷は、平安時代の終わりになると、「向津奥庄」という荘園に形を変え院政を引いた後白河院の時代に、京都東山の新日吉神宮に下賜され荘園制度が終焉を迎えるまで続いたとされています。おもな貢納品は、今でも採られている、わかめ、かじめ、のし鮑、乾魚などであったそうです。

 新日吉神宮が創建された時代、同社の神宮寺として社務を掌っていたのが、後白河院の皇居でもあった京都・三十三間堂(蓮華王院)の本坊で天台宗五門跡の一つ妙法院でした。

 二尊院はこの荘園を運営する上で、向津奥と京都をつなぐたいへん重要な役割を果たしていたと推測されます。向津奥の地名は後に、向津、向津具と転じていくことになるのです。