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楊貴妃伝説

向津具半島に流れ着いた楊貴妃

楊貴妃の絵

 今から1250年以上も昔のことです。海の向こうにある唐の国(今の中国)に、玄宗という皇帝がいました。そのお妃が楊貴妃です。楊貴妃は、たいそう美しく、歌舞音曲の才能に秀でていて賢い人でした。

 二人はとても幸せに暮らしていましたが、唐の国の中で反乱が起こり、楊貴妃は殺されることになりました。玄宗皇帝は、嘆き悲しみました。玄宗の悲しみがあまりにも深いので、陳玄礼という兵長が、楊貴妃を仏堂の中でしめ殺したと見せかけて、逃がしてあげました。

 家来に命じて空艫舟(粗末な小舟)を造らせ、それに楊貴妃を乗せ、数日分の食糧を入れて川へ流しました。その小舟が何日も何日もたって、向津具半島の唐渡口に流れ着きました。

 けれども、楊貴妃は間もなく死んでしまいました。里人たちは、たいへん気の毒に思い、久津にある天請寺の境内に、丁寧に葬りました。

玄宗皇帝が釈迦如来と阿弥陀如来の二尊を日本へ送る

 一方、玄宗皇帝は、楊貴妃のことをひと時も忘れることができませんでした。

 皇帝が眠っていると、夢枕に何度も楊貴妃が現れ、「わたしは、日本の国に流れついて、死んでしまいました。でも自分を弔ってくれる人が誰もいません。それで、成仏できなくて困っています。もし、わたしを憐れに思うなら、早く弔ってください。」と、お願いしたのでした。

 このことを知った皇帝は、たいへん哀れに思い、自分の大切にしていた釈迦如来像と阿弥陀如来像を家来に持たせ、日本に送りました。

 しかし、家来が日本に着いてみると、楊貴妃がどこの浦に流れ着き、何というお寺に墓所があるのか、さっぱり分かりません。それで仕方なく、京都の清凉寺へ仏像をあずけて帰りました。

 その後、楊貴妃の墓所が長門国の天請寺にあるということが分かったので、釈迦・阿弥陀の二尊仏を天請寺へ移すことになりました。

 ところが、京都の清凉寺ではたいへん霊験のある仏像なので、どうか残してもらうようお願いしました。そこで仏像彫刻の名人に、そっくりな二尊仏を作らせ、清凉寺と天請寺で一体ずつを分けたということです。

天請寺から二尊院へ

楊貴妃の墓

 このとき、天請寺は、朝廷から二尊仏をご本尊さまとしてお迎えしてお祀りするので、新たに二尊院というお寺の名前を賜って、名乗るようになりました。二尊仏は、寺伝によると阿弥陀像が日本で作られたもの、釈迦像が中国から贈られたものといわれています。

 二尊院の境内にある五輪塔が、楊貴妃の霊廟(通称:楊貴妃の墓)と伝えられ、いつの頃からか、楊貴妃にお参りすれば、美麗な子が生まれると信じられるようになりました。それで、日本各地から、この霊廟を訪れたり、二尊仏を拝んでいく人が後を断ちません。